
大正から昭和初期は、我孫子の地は、“北の鎌倉”と言われ、文化人の邸宅・別荘が立ち並んでいました。手賀沼を見渡す風光明媚なこの街に、文芸誌「白樺」を創刊した柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤と、声楽家で柳宗悦の妻である柳兼子、陶芸家バーナード・リーチらが集まり、当時の新しい文化運動を推進していきました。

柳宗悦は、1914年に、講道館の創始者として知られる叔父の嘉納治五郎の勧めで、我孫子天神山の別荘に移り住んで「民芸」運動を展開し、その後全国に広がっていく拠点となっていました。「民芸」は、柳宗悦の造語で、民衆の手工芸に高い価値を置いたところから始まっており、日常で使う生活用具に、機能的で素朴な美しさをもつ、いわば「用の美」を見出す工芸です。なお、今日では「民芸」という言葉は普通名詞となっています。
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<白樺文学館>
志賀直哉邸跡近くにある白樺文学館には、民芸運動の作品、雑誌「白樺」の原本、白樺派文人の原稿・書簡・書などが所蔵・展示されている。 |
「白樺派」は、柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤らが1910年に創刊した同人誌「白樺」を中心にした、大正期の文化運動の中心的存在でした。そして柳宗悦は、自らが我孫子に移り住んだ翌1915年に、志賀直哉、武者小路実篤、バーナード・リーチをこの地に呼び、それ以後、我孫子は白樺派の拠点となりました。白樺派は、人間性と個性の大胆な肯定に根ざした思想・文学・美術・音楽等の総合的な文化運動で、日本のルネサンスとも言われています。志賀直哉は、この我孫子の地で、「和解」、バーナード・リーチの装丁による「夜の光」と、長編「暗夜行路」の前編と後編の半分強を書き上げています。また武者小路実篤も、我孫子の地で「新しき村についての対話」を発表しています。
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| バーナード・リーチ碑 |

イギリス人のバーナード・リーチは、東洋陶器とイギリスの伝統的陶芸を融合させた陶芸家として知られています。幼時に日本で過ごし、1909年再来日した後、白樺派の人たちと交流した縁で、6代尾形乾山に作陶を学び、さらに1914年には、我孫子の柳宗悦邸内に窯を築き、数多くの名品を作っています。
(平成16年8月末現在)