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昭和4年頃の銀座4丁目交差点。 現三越銀座店の前から新橋方面を撮影したもの |
水の都、江戸。徳川家康が江戸に幕府を開いた1603(慶長8)年、銀座はまだ海でした。現在の皇居である江戸城から見ると、日比谷あたりは浅い海の入り江で、日比谷の海を隔てて、日本橋から半島のように砂洲が出ていたと言います。やがて日比谷が埋め立てられていき、後に、掘割が巡らされた銀座の地が誕生しました。この「銀座」という地名は、江戸幕府が銀貨鋳造所をこの地に置いたことに由来しています。当時は銀座以外に、金貨を鋳造する金座、桝座、秤座、朱座などがありました。また銀座は、江戸、京都、大阪、長崎にあったのですが、寛政の改革ですべて廃止され、江戸銀座のみ再興されました。
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| 古いファサードを残した交詢社ビル |
江戸から明治に移り、銀座を大きく変えていく契機のひとつになったのが、日本最初の鉄道開通(新橋〜横浜間)にともなう、1872(明治5)年の新橋停車場の誕生です。その後1882(明治15)年には、東京馬車鉄道会社が、新橋〜日本橋間に開業。新橋停車場から銀座を通り、日本橋へつなぐ路線を走りました。そしてもうひとつがやはり1872(明治5)年にスタートした、銀座を煉瓦造りの西洋式建築の町にしようという計画です。このきっかけになったのは、同年起きた銀座大火。祝田町の和田倉門内の元会津藩邸だった役所から出火し、銀座全域が焼けたのです。明治政府は、当時の不平等条約を改めるためにも、鉄道敷設と煉瓦街の建設を行い、西洋化を進めました。

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の巨大な地震が関東を襲いました。この関東大震災によって銀座の街も大打撃を被り、すべてが灰になりました。復興事業は1930(昭和5)年まで約7年間つづき、この復興のなかで道が広げられ、区割りも8丁になり、現在の銀座の基本形が生まれました。その後、昭和の戦火での苦難を耐え、戦後連合軍のPX(ポスト・エクスチェンジ/駐屯地内の売店)時代、そして東京オリンピック開催へ。幾度も遭遇した国際化の波のなかで、国際感覚を培い、銀座は独自の鋭いアンテナと感性を身につけた街になっていったのです。
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| 昭和14年頃の銀座風景 |

やがて銀座は、百貨店、専門店、グルメ、芸術、いずれにおいても最新かつ最高の商品、品質、演出を提供し、日本が世界に誇るトップレベルのショッピング&カルチャーエリアとしての地位を確立しました。そして21世紀が進む今、新たな情報発信の時代においても、街の魅力づくりのために、人がいきいきと楽しむ街として「銀座ルネッサンス」を掲げ、世界の銀座、祝祭の街づくりに向けて発展をつづけています。
(平成18年8月末現在)