
下川端と中洲を結ぶ橋のひとつ、本通り橋の近くに残る小さな碑。刻まれた文字は「渡唐口跡」。地元では碑だけでなく、博多川に沿って伸びるこの川端町一帯を「とうとうぐち」と呼んでいます。
「渡唐口」とは、その文字の通り、唐の国へ渡る船が発着した場所を指します。630年に始まり894年に廃止されるま

で数回にわたって派遣された遣唐使の船はもちろん、それに先立つ遣隋使の船もすべてここから船出しました。はるか昔から船を駆り、いのちを風にまかせて水平線の彼方へ向かった博多商人。彼らは、イチかバチか、生きて帰りつけば百倍にもなったといわれる巨利を目論み、宋の商人や有力な寺社と結んで船を仕立て、大陸を行き来しながら富を蓄えていきました。商都博多の基礎は、まさにこの時代に築かれたといってもよいでしょう。
この頃、すでに博多には外国人居留地があり、宋からの帰化人も多く、国際結婚も盛んでした。古くから海に向かって門戸を開き、大陸や朝鮮半島、さらには東南アジアまで広がる交易網を持っていた博多商人にとってこれはごく自然なことでした。異国の文化をおおらかに受け入れるゆとりを育む母胎は、海の幸、山の幸に恵まれ、とりあえず飢えて死ぬ心配のない恵まれた自然環境。そして、自由闊達で進取の気質に富むコスモポリタン博多の気質は、まぎれもなく歴史と風土が育てたのです。

江戸時代に入ると、対外貿易の窓口は長崎に移り、博多商人は活躍の舞台を失っていきます。しかし博多商人のたぎるような血の熱さとエネルギーは、海外への雄飛や巨利を得る夢を失っても、祭や芝居に賭ける情熱へ転化され燃えつづけました。
山笠の総鎮守である櫛田神社に見守られるように川端の町はあります。「片原町」と呼ばれた元禄の昔から人の町として発達してきた川端が、「博多誓文晴」発案など、近代博多の商業発展の基礎を築いた金山堂八尋利兵衛に代表される優れた商人を生み出したのも、営々と積み重ねられた町の歴史と土壌があったからなのでしょう。
(平成15年2月末現在)